プロフィール

職人のように……

 

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田邊 卓 takashi tanabe

1950年……岐阜県岐阜市生まれ
1968年……板橋義夫デザイン事務所に入社。アポロ11号月面着陸成功の年)
板橋は当時グラフィックデザイナーの登竜門であった日宣美(日本宣伝美術協会)の事務局長を務めていた。おりしもこの年、多摩美・武蔵美などの学生らによって日宣美審査会場の渋谷女子高等学校が造反に遭った。翌1970年日宣美会員の横尾忠則ら存続反対派の意見も強く影響し解散した。若いデザイナーが自らの作品発表の場を無くした。
入社当初はワインやウィスキーなどのラベルのデザインをやることになった。ラベルの仕事を貰うと、まず銀座松屋の地階ワイン売り場へ行き輸入ワインなどのラベルを見てまわった。それが、いろいろな英字書体と、特殊紙との出合いとなった。英字書体には大きく分けてSerif Type(明朝体) 、Sans Serif Type(ゴシック体)、Script Type(筆記体)などがあることを知る。ワインラベルのメインに使われる書体は、ScriptもしくはScriptをアレンジしオリジナルに描き起こした書体を使ったモノが多い。 繊細で流れるような柔らかな線が好きで、当初そんなデザインを好んで真似していた。(写真上)
サブの書体には、Serif Typeは、Bodoni Book、Garamond、Sans Serifは、Helvetica、ほかにCopperplateなどもよく使っていた。用紙はサーブルをよく使った。
当時はMacintoshはもちろん、インレタもなかったので、めんそう筆、ポスターカラーを使って細かい文字なども描いていた。ラベルは金色を使うことが多く金粉に適量の水を足し(この水の量が難しい)人差し指で練るように溶て使う。script書体の細い線や、10級くらの小さな文字を金粉とめんそう筆を使って、サーブルのような表面がボソボソの紙に描くのは至難の業だった。
ラベルという小さなスペースのデザインが、以後のデザインの基礎になったように思う。
入社から2〜3年たった頃になると、ほかのデザインの世界を見たい欲求に駆られた。

 

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めんそう筆 ガラス棒 溝引き用物さし

 

1974年……入社5年後に板橋の紹介でAD5に移った。
その後(1977〜1980)機会があって資生堂宣伝部へ出向。そこでは、キャンペーンのために1人のディレクターを中心にキャンペーンスタッフが組まれる。キャンペーン室に3ヶ月程入りっぱなしになり、ポスター、雑誌広告、POP等の制作をしていた。その間、制作室のキャンペーンスタッフの机が空くので、 そのスペースを借りて、ジプシーのように転々とし仕事をしていた。
当時グラフィックのディレクターは20人ほどいた。ほとんどのディレクターと仕事をさせてもらい、4年間を過ごした。最初は資生堂のロゴや商品ロゴを描き起こす仕事をしていた。資生堂のロゴは1つではなく、いろんな書体があることを知った。通常企業のロゴは1つに決まっている。しかし資生堂ロゴは描いた人の数だけある。長体、平体、ボールド、メデュームといろいろだ。もちろん完成度のあるものだけが使われる。制作物にロゴを入れる位置、色、椿マークとの位置関係も決められていない。各デザイナーに委ねられている。ロゴを描くにはアウトラインの仕上げには0.1mmのロットリングを使う。紙を軽く突っつくように、ヘアラインレベルで、形と太さの調節をして行く。

 

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手書きで作ったプレゼン用ラベル

 

Macがあればあっという間に、完成度のあるモノができてしまうが、手描きは気が遠くなる話であった。しかし、出来上がったロゴは、Macを使って描いたものとは微妙なニュアンスの違いが出る。
当時もう一つ学んだことは印刷のこと。クリエーティブな表現を支える印刷表現の質の高さは、デザイナーの頑固な印刷管理によって実現すると言うことである。、肌色、グレーの印刷での再現の難しさも知った。
現在、印刷作業もデジタル化され、アナログの時よりも質の高いものが出来るようになった。しかし、印刷管理がしにくい環境であると思う。
この3年余、毎日夜遅くまで精力的に仕事をした時期でもあった。ここでの経験は、時間以上に実り多いものがあったように思う。
その後、1980年……資生堂で出会った鬼澤邦の独立・新事務所設立に参加し、「流行通信」「OMNI」などのエディトリアルデザインなどを手がけた3年間は、大きな転機になり、ぼくの独立後の羅針盤になったように思う。
この頃は写真植字の細かい指定に時間を費やし、写植のことを多く学んだ。和文書体を意識するようになったのもこの時期である。本文組は写研=MM-OKL(石井中明朝体)、BM-OKL(石井太朝体)、を好んで使った。独立して始めて手がけた「PHOTO JAPON」のディトリアルデザインの仕事では、各企画の扉のタイトルにSHM(石井秀英明朝)長斜体2番を使った。雑誌の入稿は指定原稿が主流であったが、タイトル回りだけは、写植を打ち、切り貼で字詰めをし、完全版下で入稿していた。

 

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1995年展覧「消えてしまいそうなイラストレーションたち」展会作品より

 

1981年………結婚。
1983年………長女誕生(ディズニーランド開園の年)
1984年………独立。T-room設立。雑誌=OMNI(1984〜1988)PHOTO JAPON(1985)、資生堂、森英恵、
凸版印刷=INAX、サントリー、ニッシンカーペット、日東商会、日本農村情報システム協会、日本シネセル、インタービジョン、脇田美術館、 あすなろ書房、
1987年………TDS(東京デザイナーズ・スペース)会員にな
1987年………次女誕生。
1989年………Macintosh Ⅱ導入。(初代、カラー対応機)この時まだDTPにはほど遠い状況。
1992年………三女誕生。
この年くらいからMacによる入稿が現実的になり始めた。
1995年………Macで描く0.1ptのイラストレーション「消えてしまいそうなイラストレーションたち」展開催。(東京デザイナ ーズスペース・六本木)
2003年………●あすなろ書房:販促物(新聞広告、本の紹介小冊子、パッケージ、POP)、ブックデザイン(「オリビア」「『知』のビジュアル百科」「ウエズレーの国」「いろいろ1ねん」「サンタのなつやすみ」「ひとしずくの水」「視覚ミステリーえほん」「赤ちゃん誕生」)など●小学館:装丁(「あらまっ」「ふわふわくもパン」「はじめての★おはなし」絵本シリーズ)●ライフサイエンス出版 :「薬の知識」(月刊 PR誌 2003/1〜2006/3)、 ●脇田美術館、

 

originalfontUNIXアプリケーション=FontForge、OTEditを使って作ったかなフォント。漢字は「リュウミン」

 

Mac発売以来、一番残念っだったのは、「写研」の書体がMacに対応しなかったことである。DTPが本格的に始まった頃、多くの雑誌、書籍などのDTPの本文組にM社の明朝がつかわれた。個人的にはM社の明朝はどうも好きになれない。そう言う声はほかでも耳にする。写植がなくなりつつある昨今、「写研」の書体が使えなくなるのは残念でならない。「写研」の明朝は文字組をしたときに美く、完成度が高いのが気に入ってた。「写研」のフォントをMacで使えるよう切にお願いしたい。Macにおける日本語Fontの有無による問題は、みなが共に同じ書体を持たないと解決出来いない。そのためにも書体の著作権も50年?たったらフリーにして欲しい。が、作った人のことを考えると…?。非現実的。今は印刷所などで書体が有りませんと言われると止むを得ず、先方にある書体を使うことになる。書体の選択は、デザインをする上で重要な要素である。どんな書体も自由に使えるMacの環境が来ることを望んでいる。Adobe SystemのPDF/X-1aの規格はその解決のひ一つの法法でもあるが……。(2005年記)

2002年2月フォントワークスの “LEST”。 2005年8月モリサワの “passport”。などリーズナブルな価格で多くの書体を使用することができるシステムが始まった。印刷所などもこのシステムを導入するようになった。いろいろな書体を自由に使える環境がやっと整ってきた。DDP用…Macintosh Ⅱ発売から20年目のことである。(2009年1月記)

 

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